如来寺通信「つゆくさ」

令和4年9月18日ハガキ案内

ヒガンバナが咲き始めました。暑かった今年の夏もようやく終わります。皆さんご機嫌いかかでしたか。私はお陰様で何とか元気に過ごさせていただきました。

 

令和4年4月3日ハガキ案内

3月のお彼岸は沢山の方がお参りされ賑やかでした。4月の「花まつり」はお釈迦さまの誕生(4月8日)をお祝いする日です。甘茶を掛けてお祝いします。ぜひお参り下さい。境内に駐車できます。お顔だけでも覗かせてください。
今回は、『新型コロナワクチン誰も言えなかった真実』(鳥集徹著、宝島社)の「まえがき」から一部を紹介します。参考になれば幸いです。
「このワクチンは、やっぱりおかしい」そう思ってる人が増えているのではないでしょうか。みんなでワクチンを打てば、新型コロナウイルスにかからなくなり、コロナ禍が終息する。そんな政府やテレビの説明を信じて、喜んで打った人が多いはずです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。・・・ワクチンを打てば感染しないと思っていたのに、病院や施設で「ブレークスルー感染(2回接種した後に感染してしまう現象)」によるクラスター発生が相次ぎました。・・・日本でも2021年11月から、3回目の接種が行われることになりました。・・・しかし、「もうワクチンはコリゴリだ」と思っている人が多いのではないでしょうか。発熱、頭痛、倦怠感、腕の痛みなど、副反応があまりにもきついからです。とくに若い人たちに、39℃や40℃もの高熱に襲われる人が多発しました。これほど副反応の強いワクチンは、前代未聞です。そのために、ワクチンを打った後、めまい、頭痛、倦怠感などの後遺症に悩まされ続けている人がいます。それだけでなく、接種後に重篤な状態の陥ったり、死亡に至ったと報告されている人も多数存在しています。・・・私は、25年近くにわたって医療現場を取材し、これまでに数千人の医師を取材してきました。薬害が取り沙汰された抗がん剤の「イレッサ」、抗インフルエンザ薬の「タミフル」、そして「子宮頸がんワクチン」についても取材し、製薬会社の資金提供によって歪められた医学界の現状を告発した著書『新薬の罠』(文藝春秋)で、日本医学ジャーナリスト協会賞大賞を受賞しました。そのキャリアを持つ私から見ても、新型コロナワクチンが「歴史上最大の薬害事件」になることは、間違いないと思います

 

令和4年3月13日ハガキ案内

1月は「梅いちりん一輪ほどの暖かさ」3月は「お水取りが終われば(3月14日)春がやってくる」、そしてお彼岸(今年は3月24日)は「暑さ寒さも彼岸まで」。確かにそうだなと思いながら今年も無事に冬を過ごしました。いよいよ春です。人間界はゴタゴタしていますが、自然界はいつも黙って季節を運んで来てくれます。嬉しいことです。お彼岸にはぜひお参りください。
 
先月28日に全国の有志医師の会(医師268名、医療従事者537名)が下記の共同声明を出しました
 
新型コロナウイルス感染症対策の抜本的変更[現在の二類相当を五類へ変更]、及び新型コロナワクチン接種事業(3回目接種、5歳~11歳の子どもへの接種、妊婦への接種)の即時中止を求めます。
 
その理由を、【現在使用されている新型コロナワクチンは、mRNA ワクチンという人類に初めて使用される新しい機序の薬剤であるにもかかわらず、2021年2月に「特例承認」され臨床試験が終了しないまま接種が開始されている。中長期的な安全性は十分に確認されているとは言えず・・・接種後に体内で産生されるスパイク蛋白自体に血管障害や血栓症を誘起する作用に加え、接種後の心筋炎や全身性炎症、及び免疫抑制による感染への脆弱性を示す研究論文が次々と報告されている・・・(以下省略)】と説明(詳細はネットで「全国有志医師の会からの共同声明」を参照)。
 
私自身(住職)も今回は特に将来ある子ども達と妊婦は接種すべきでないと思っています。親御さんは今大変な判断を迫られています。ただ今回のオミクロンは、デルタと違って毒性が大変弱く、感染しても鼻風邪程度で済む人がほとんどです。なのに死者が多いのは、死因が何であれコロナウイルスが見つかればみなコロナ死にしているからだと言います。接種した場合のリスクと、しなかった場合のリスクを考えれば、子ども達と妊婦は絶対に接種すべきでないと思います。身内などに若い親御さんがおられたら、ぜひこの共同声明を教えてあげてください。

 

◆◆「つゆくさ」172号(平成30年12月発行)より

弥陀の心と天皇

阿弥陀如来と天皇、一見何の関係もないように思いますが、この両者は「利(り)他(た)の心」でつながっていると言えます。自分を犠牲にしてでも他人を助けたいといういう心です。
 阿弥陀仏(仏さま)と言えば、木像や絵像のお姿を思い浮かべますが、実際は姿も形もなく、目には見えません。仏さまの本質は「慈悲」です。しかもその慈悲は「平等の慈悲」です。仏さまは、だれに対しても、常に自分のたった一人子を見るように接見されるのです。また、「すべての人が助かるなら、自分は一生地獄の中にあってもそれを苦としない」ともおっしゃるの方です。だから、仏さまは、迷える衆生を一人残らず助けたいと思い、常に働きかけておられるのです。その働きかけ、声なき声を聞いていくのが真宗の教えです。では、なぜ仏さまは一切を救いたいと思われるのでしょうか。実はそれが仏さまの喜びだからです。我々人間にも人が喜んでくれることを喜びとする心があります。この心を突き詰め、100%利他心で満たした理想像が仏さまだと考えればよいのです。仏さまは、自分のいのちを自分のためだけに使うのであれば、最期はむなしい人生で終わりますよ。たとえわずかであっても、「利他の心」をもって生きて下さい。利他の心こそ人間を本当に幸せにする生き方ですよ、と呼びかけておられるように思います。


 一方、天皇陛下も「利他の心」をもって日々公務についておられます。天皇は常に国民のことを思い、国民の幸せと国の平安を朝夕祈っておられるのです。歴代天皇はどの天皇も「民のかまど」で有名な仁徳天皇を鑑(かがみ)としてきました。日本書紀には、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と三年間税の徴収を止め、その間天皇は衣を新調せず、屋根が破れても修理せず、さらに三年間税の徴収を延期しました。ところが今度は、民がそれでは天罰が当たると、税の徴収を申し出て、さらにお住まいの修理までしだした、と書かれています。因(ちな)みに、天皇の生活が驚くほど質素なのはここから来ています。
 日本の皇室は世界最古の王朝です。仁徳天皇からでも1600年以上。日本人が知らないだけで、世界の国々からは畏敬の念を以て見られているのです。皇室が長く続いてきた最大の理由は男系男子の血統・世襲にあると思っています。たまたまそこに生まれた方が、しかも、その資格を持つ方が極めて限られてきますから、天皇の座をめぐっての争いが起きにくいのです。また、生まれた方は、小さい頃から将来天皇になるべき人として育てられ、育ちます。したがって、自然に天皇の徳・利他の心が身につくのです。さらに、古代の人々は、天皇には「権威」は与えても「権力」を与えませんでした。その知惠の深さには驚かされますが、これも皇室が長く続いてきた大きな理由だと思います。


 天皇と国民の関係は、支え合う関係です。西洋のように支配する側と支配される側という対立の関係ではありません。それはまさに聖徳太子の「和を以て尊しと為す」の世界です。日本は敗戦後アメリカから民主主義を教えられたと言う人がいますが、そうではありません。聖徳太子の時代からすでに日本には「日本の民主主義」があったのです。日本は元来、あらゆる組織(共同体)が寄り添うことによって成り立ってきました。農村も漁村もお寺もそうです。しかも、どの共同体も上に立つ者は常に天皇の利他の心を手本としてきたのではないかと思うのです。だからこそ、それを支える人々も寄り添うことができたのです。それが日本という国ではなかったかと思うのです
 最後に昭和天皇のエピソードを紹介します。陛下は昭和20年9月27日はじめてマッカーサー元帥を訪ね、二つの事を述べられました。「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのだから、自分に対してどのような処置を取られてもかまわない。次に戦争の結果、現在の国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多くの餓死者がでるおそれがあるから、米国にぜひ食料援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部にあてていただければ仕合わせである」と。それまで自分の席で足を組み、パイプをくわえたままであった元帥が、抱きつかんばかりにお手をにぎり、「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」と述べ、天皇がお帰りのときには、自ら見送ったのです。この会見の内容は、いっさい極秘にするとの約束があり、陛下はそれを固く守られました。ところが昭和30年9月2日、重光外相が公務でアメリカへ行き、マッカサーと合い、陛下の伝言を伝えたとき、マッカーサー元帥がみずから事の真実を語ったのです。  以上

 ◆◆ 「つゆくさ」158号(平成27年9月発行)より

 お葬式は気が動転している中でいろいろな事を決めて行かねばなりません。だから、葬儀社に言われるままに事が決まっていく場合が多いのです。良心的な担当者の場合は良いのですが、そうでない場合は、あとで後悔をすることになります。

 最近、親子で互助会に入っていた人がいました。葬儀の後でそのことを知ったのですが、そういうことはよくあるそうです。ただ、掛け金はこちらから申し出ない限りそのままになってしまいます。一度話し合っておく必要があります。ちなみに、以前は互助会の解約は大変難しかったのですが、最近はずいぶん容易になり、だいたい8割くらいは戻って来くるようです。

 

 

 

  ◆◆ 「つゆくさ」157号(平成27年1月発行)より

住職近況 テレビと新聞 私は6月にテレビを取り外し、片付けました。要するにテレビを見ないことにしたのです。もちろん新聞は取っていますから、世の中の動きはわかります。ただし、産経新聞ですから、その見方は多くの人とは少し違っているかもしれません。産経新聞については、今から30年以上前になるのですが、在日フランス人が書いたという『不思議の国ニッポン』の中に「日本では産経は右といわれているが、欧米人の目からすれば産経は真ん中で、朝日・毎日・読売は左だ」と書かれていました。それで早速、それまで読んでいた毎日新聞を止めて産経新聞にしたのです。とは言っても、毎日新聞をそれまで、右や左など考えたこともなく、不満に思ったこともありませんでした。ただし、社説は幾ら読んでもわかりにくくて読む気がしませんでした。朝日新聞のコラム「天声人語」は受験時代からあまりにも有名でしたから何度か読みました。しかし、何か斜に物を見ているようで好きにはなれませんでした。ところが産経新聞を読むようになって、社説が読めるようになり、またコラムの「産経抄」も楽しく読むようになったのです。また、産経新聞は何か事件が起これば、その事件の背景や問題点を追跡する記事が多く、それもシリーズ物で掲載されることが多かったので、当時は結構熱心に読んだものです。そのおかげで、日本社会の仕組みや構造、その問題点が少し理解できるようになった気がします。

 インターネット  テレビの代わりに今はもっぱらネットを見ています。ネットの中で一番よく見ているのが「真相深入り!虎ノ門ニュース」です。虎ノ門ニュースはネットのライブ放送で、曜日ごとに解説者が変わります。青山繁晴氏、百田尚樹氏、有本香氏、武田邦彦氏、須田慎一郎氏、ケントギルバート氏、石平氏、武田恒泰氏など多彩な顔ぶれが、それぞれのニュースについて、その背景や裏話などを交えて、文字通り真相を深掘りしてくれます。どの解説者も知識が豊富で、しかも自ら現場に足を運ぶ人たちですから、大変面白く興味深いのです。また地上波テレビのように制約やカットもありませんから、自由にのびのび話しているように感じます。

 ネットのありがたいところは、生放送を見なくてもユーチューブに録画がされていて、いつでも好きなときに見られることです。ちなみに、ネットを見るに至った経緯を話せば、以前は、夕方になると関西テレビの「スーパーニュースアンカー」を見るともなく見ていました。ただし、青山繁晴氏がアンカーの水曜日だけは欠かさず見ていました。中身が他のアンカーとは段違いに濃く、予想がよく的中したからです。ところが、一昨年の安保法が審議される前だったと思うのですが、アンカーを降板した(させられた?)ので大変残念に思っていました。しばらくして、たまたまネットの虎ノ門ニュースに出ていることを知り、それからを見るようになったのです

 

 住職雑感 人それぞれに色々な考え方や意見がありますから、そんな見方もあるのかと軽く受け流すつもりで読みください。

 マスコミ崩壊 選挙が終わってみれば、自民党の圧勝。国民の大半が安倍さんに引き続き政権を担当して欲しいと思ったのです。逆に野党は、対案も出さず「安倍反対」だけですから支持が集まらないのは当然だと思います。実は野党の体たらくはひとえにマスコミによると思っています。批判だけで対案も出さず、まともな国会運営もしない野党を、本当はマスコミが厳しく追及すべきなのです。ところがマスコミは、その野党と一緒になって必至に安倍打倒に奔りました。「偏向報道」と「報道しない自由」まで駆使してです。しかし結果はものの見事に失敗です。以前なら成功したでしょうが、もう国民はだまされません。一度、民主党政権でひどい目に遭っているし、今はインターネットがあるからです。ネットを見れば、簡単に色々な意見を知ることができます。特に若い世代は新聞もテレビも見ませんから、マスコミの影響を受けない人が多いのです。これまで長い間、世論を思いのままに誘導し、第3の権力とまで言われてきたマスコミですが、ネットの前に今まさに壊れようとしています。平成29年は「マスコミ崩壊元年」と呼ばれる年になるかもしれません。

 

 

  ◆住職雑感◆ 「つゆくさ」156号(平成26年1月発行)より 

  一年前、私はこの「つゆくさ」で、「平成25年という年は、日本がどんどん良い方向に進んでいく出発の年になるように思う」と書きました。 それは、衆参のねじれが解消し、安倍さんが首相になったからです。
 安倍さんは大変誠実で、私利私欲が極めて少なく、しかも強い信念を持った政治家だと見ていたからです。
 あれから一年、昨年は東京オリンピックが決定し、経済もアベノミクスが順調で、少し明るいきざしが見えてきました。 平成26年はさらにその明るさが増していくだろうと思っています
 ただ、ここでいう「明るさ」は経済に限ってのことですが、私が「日本がどんどん良い方向に進んでいく」と言ったのは、経済もさることながら、それ以上に、日本人が自信を取り戻し、自国に誇りを持ち、世界から尊敬される国になっていくのではないかと考えたからです。
 それは、安倍さんが教育改革に並々ならぬ熱意を持っていたからです。
 私は教育こそが国の根幹だと考えているのですが、これまで本気で取り組む政治家がいなかったように思います。それは、教育はとても長い時間がかかり、すぐには成果が現れませんし、「票」にも結びつきません。その上、強い反対があったからだと思います。
 安倍さんは、最初に首相になったときから、教育再生を最重要課題と位置づけ、教育基本法の改正を成し遂げました。
 教育基本法は昭和22年に施行されたのですが、その中に「教育は、不当な支配に服することなく」の一文があります。この一文をいつしか先生方は「政治不介入」の一文だとして、行政の言うことをまったく聞かなくなりました。特に組合の強い地域はそうでした。
その結果、学校で国歌を一度も習ったことがない生徒が見られるようになったのです。もう十年以上前の話になりますが、大阪の地下街で、貴乃花だったか、優勝したときにテレビから「君が代」が流れていました。その時の若いカップルの会話が、「あれ何の歌」、「さあ、知らない」でした。
 六十年ぶりに改正された現在の基本法では、「教育は、不当な支配に服することなく」の後に「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」の一文が追加されています。「政治不介入」の行き過ぎに歯止めをかけたのです。
 また安倍さんは、教育再生の目指すところについて、「すべての子どもに高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障すると共に、我が国の歴史・伝統・文化をしっかり学んでもらうことです」と述べています。
 確かに、子どもの頃に規範意識を身に付けさせることは大事なことだと思います。
どれほど法律を整備しても、ずるいことや卑怯なことをしてでもうまくやればそれで良い、といった風潮が広がれば、まじめにやる人がいなくなり、ついには世界からも軽蔑され、その国は滅びてしまうからです。
 話は変わりますが、二年前に日本青年研究所が四カ国の高校生におこなったアンケート調査があります。「自分はダメな人間だと思うか」の質問に、YESと答えた日本の高校生は66%もありました。ちなみに、中国は13%、米国は22%、韓国は45%でした。
 現文科大臣の下村博文氏は共著『サッチャー改革に学ぶ』のなかで、次のように語っています。
 かつて英国の歴史教育はなんと自虐史観だったんです。
英国では元々、教科書検定や学習指導要領が明確でなく、それぞれの教師が自主的に教材を選んで使うことが許されていました。その結果、労働組合などが中心に作った教科書が広く使われていました。
その教科書には、いかに英国という国が植民地の人たちの血と涙を搾取することで発展繁栄をしてきたかということが書かれているのです。それを読めば子供たちは自分の国に対して誇りも自信もなくなりますよね。そういう歴史教育を行っていたのです。
 歴史には「光」と「影」の部分があります。サッチャーは影ばかりに焦点をあてて、自信を喪失してしまわないよう、英国には世界に誇れる素晴らしい歴史と文化があることを子供たちに教えたのです。
 日本だけかと思ったら、戦勝国のイギリスでも自虐史観教育をしていたとは驚きました。
それはともかく、私は、長い時間かかるけれど、教育再生がうまくいけば、きっと日本は世界から尊敬される国になり、どんどん良い方向に進んでいくと考えているのです。
 そのためにも、私は安倍首相が、テロや事故に遭いませんように、病気になりませんようにとひそかに祈っているのです。  合掌

 

◆住職雑感◆ 「つゆくさ」152号(平成25年1月発行)より

 

 平成25年という年は、「日本がどんどん良い方向に進んでいく出発の年になる」と私は感じています。今から13年前になるのですが、「つゆくさ」83号で、平成11年(1999年)という年について書いたことがありました。

 「国民が、識者・評論家と言われるエライ先生方の言うことより、自分たちの感じていることの方が正しいのではないかと気付き始めた年ではなかったか」と。

 今回は、その話とからめながら、少し私の思いを書いてみたいと思ったのですが、残念ながら書く時間がありません。そこで、当時の「つゆくさ」を掲載します。御笑覧ください。私自身も懐かしい気持ちで読み返しました。

 

 今新聞紙上を賑わせているのは、足の裏診断の「法の華王法行」ですが、その前はミイラと定説の「ライフスペース」でした。これらはすべて宗教やセミナーに名を借りた詐欺グループと言っても良いのです。それにしてもどうしてこんなにだまされ、多額のお金を吸い取られるのでしょうか。カリスマ教祖(実際は詐欺師)にかかれば、ミイラ化した遺体でも生きているように見えるようです。以前、ただ飛び跳ねているだけなのに空中浮遊だと言った人たちがいましたが、それと同じです。無学な人間ならまだしも、高学歴の人間がコロッとだまされるのですから不思議です。

 驚いたと言えば、七月末の全日空ハイジヤック事件。機長がナイフで刺し殺され、犯人が操縦桿を握っていた事件です。犯人は異常な飛行機マニアで、一度本物の飛行機を操縦したかったのだと言います。まったく子供が駄々をこねて起こしたような事件です。よほど知能の低いバカかと思ったら、これがまた優秀な大学を卒業していたというのですから、学校の成績と知能は関係ないようですね。

  「日本よ、どうなってしまったのか」と言いたくなるような事故や事件ばかりが多発した年でした。

 何故日本はこんなにダメになってしまったのか。その原因については、家庭が悪い、学校が悪い、政治が悪い、資本主義の弊害だ、社会全体の問題だ、等々論議されていますが、私自身はその答えは明確だと思っています。それは教育です。戦後教育の欠陥がここに果て膿を出し始めたのだと考えています。

 戦後教育の最大の欠陥は国家を恐ろしいもの、悪者だと教えたことです。もちろん民主主義は高く評価されるべきものですが、日本の場合はそれを戦勝国である外国から与えられました。国はどこでもそうですが、自国の利益を最優先させます。戦勝国にとって、日本が再び戦争を起こさないように、日本を骨抜きにすることは自国の国益につながります。そこで日本人が国家に忠誠を尽くさないように、「国家は悪・国民は善」という思想を植え付けました。先の戦争は国民は悪くなかったが、国民をリードした国家が悪かったのだと教えたのです。

 国家は恐ろしい、国家は常に国民を編す。だから国家は悪者だといった図式です。日本の民主主義にはこのような思想が秘められていました。

従って、戦後教育を受けた者たちは、私も含めて国を敬い尊敬するという気持ちは戦前の人たちに比べればまったく希薄です。

 当然、日本国の象徴である天皇にたいしても同じです。国家は悪、国民は善という思想は、国のために命を捧げるなどと言うことは愚の骨頂、国のため何かをするということさえ無意味だと教えます。従って、そこには国のためにという考えがなくなり、当然「公」のために尽くすという考えもなくなります。「公」がなくなれば、行き着くところは「私」です。ただ自分の利益のためにだけ行動し、自分の権利ぱかりを主張するようになります。

 ただ、戦後三十年ころまでは、戦前に教育を受けた皇国思想の親たちが社会の中心にいましたから、戦後民主主義は丁度良い具合に抑制され、実にうまく働いていたように思います。ところがその人たちが老齢化し、姿を消しはじめると、それまでの抑制がはずれ、戦後民主主義の「国家は悪・国民は善」の部分が勢いを強めだし、益々国や国家を悪規する傾向が強まり、反対に国民の権利や人権、自由や平等ばかりを強く主張するようになりました。その結果、本当の自由や平等が歪められ、自由気まま、勝手気ままな大人が多く育ってしまったように思います。

 特に、ここ二十年くらい前から学校では日の丸の掲揚や、君が代の斉唱がなくなってきたと聞きます。確かに、小学校で一度も君が代を教えてもらったことがないと言う子供が結構いるのです。それにしても,学校の一部の先生方が、日の丸は侵略の象徴であり、アジアの人々を苦しめるから掲揚しないど言うなら、何故、国旗を別のものに変える運動をしなかったのでしょうか。君が代は天皇を讃える歌だから国歌としてふさわしくないというなら、なぜ国歌を別の歌に作り替えようとしなかったのでしょうか。

 その人が本当にアジアの国々や日本のことを思うなら、そうすべきであったはずです。なのにそれをしてこなかったのは、要するに、国家は悪という思想に深く染まり、その結果、愛国心はもちろん、国を意識させることさえ危険だと考えているからだと思います。だから、その人たちは、国旗がなんであれ、国歌が何であれ、それが日本の国旗や国歌であれば反対したはずです。

 今、学校では、歴史的事実はすべて教えるべきだとして、例えば中学生の教科書にわざわざ従軍慰安婦の記述まで載せ、日本はこんなに悪いことをしてきた国だと教えています。これも国家を悪とする思想が高じて起こっているのですが、しかし、自国を悪く教える教科書が一体世界のどこにあるでしょう。

 「裸の王様」という話があります。服装にはめっぽううるさい王様がいました。どの服も気に入りません。そこで困ってしまった仕立屋は、策を巡らし、透明の服を王様に着せました。仕立屋も周りの家臣も口裏を会わせて「とてもよくお似合いですよ」と褒め称えました。王様はすっかりその服が気に入りました。王様はその服を見せるために、馬に乗って国中をパレードすることにしました。王様の姿を見た国民たちは、どう見ても裸にしか見えないのですが、王様を取り巻く賢い立派な家臣たちが皆「なんて素晴らしい服だ」と口々に誉めるものですから、てっきり、服が見えないのは、自分の目が悪いからだと考えました。内心では何かおかしいと思いつつも、みんなにバカにされるのもいやですから、王様の服を褒め称えたのです。ただ一人、子供だけが「王様はハダカだ」と言いました。

 説明しなくても皆さんよくご存知の話ですが、日本の戦後五十年の状況が、私には何かこの話と大変よく似ているように思えてならないのです。これまで国民は「何かおかしい、何かおかしい」と思いながらも、テレビや新聞などを見れば、そこで発言している評論家や弁護士や大学教授、要するにエライ先生たちが異口同音に「王様の服は素晴らしい、王様の服は素晴らしい」と言うものだから、やはり自分の考えは間違っているのだと思ってきました。でも、エライ先生たちの言う通りにしてきたけれど、日本は良くなるどころか悪くなるぱかりでした。

 例えば五年前、オウム真理教がサリンで無差別殺人を行ったとき、国民の誰もがオウムなどつぶしてしまえと思いました。国がいざ破壊防止法を適用しようとすると、不思議なことにエライ先生方は、もう危険は去ったと言って、破防法に反対しました。しかし、国民は今でも恐怖を感じており、あのときオウムを潰しておいてくれたらと思っているのです。

 次に少年法です。凶悪な事件を起こしても、二十歳未満ならば、その刑罰は驚くほど軽く、特にそれが十四歳未満ならば、ナイフで人を刺し殺しても、何の刑罰も受けません。余りにもそんなことがたびたび起きたものだから少年法改正が叫ばれました。実は大多数の国民はもっと以前より少年法を改正すべきだと考えていました。と言うのは、少年たちは悪事を働いても何の刑罰も受けないものだから、それをいいことに却って悪事を繰り返し、ついには大罪を犯してしまうからです。小さい罪の時に厳しくしておけば、大罪を犯さなくて済むからです。しかし、エライ先生方は何故かいつも改正には消極的で、未だに少年法は昔(昭和二十三年施行)のままです。

 ここ数年、日本は目に見えて傾きだしました。国が傾きだしてようやく国民は気づきはじめました。自分たちの方が正しかったのだと。今、ボソボソではあるが「やっぱり王様はハダカだったのだ」とつぶやく人が現れはじめました。「私はそれが今年という年であり、国国歌法案の成立はその一つの象徴であったと考えているのです。