如来寺の沿革

◆開基◆

如来寺は大正15年の建立で、当初の名前は芦屋精舎でした。

開基は如来卍志希(にょらいまんじしき)と言い、境内のお墓にその事跡が刻まれています。

女史は飛騨高山の生まれで、31、2歳の頃までは普通の主婦でしたが、突然病に倒れ仮死状態となり、4時間後に蘇生した人です。

蘇生後は人が生まれ変わったようになり、仏陀の慈悲を説くようになりました。

女史は常に「行き先を我が家とし、命終その地を墳墓とす」と言った人で、その布教は多くの人びとに感銘を与え、各地に女史の後援会ともいうべき如来講が結成されました。

その数は北陸から近畿にかけて7、80講にも達したようです。

 

◆一寄進◆

そして、芦屋にも如来講が結成されました。如来寺はこの芦屋如来講によって建立されたのです。

中でもとりわけその中心的存在であった野瀬七郎平氏は、寺の敷地と建物を一人で寄進するなど、その尽力は絶大なものでした。

氏は、滋賀県(近江)の出身で、江商(現兼松江商)の創設者の一人でした。

成功をおさた後、芦屋に居を構えました。現在も如来寺の東側に、その一族がお住まいです。

当時の七郎平氏は、如来寺も含め、川西グラウンド、精道幼稚園など自宅周辺の広大な一画を所有していました。

 

◆芦屋精舎◆

当時は寺院建立が大変困難であったため、如来寺は財団法人芦屋精舎として建立されました。芦屋精舎は

全国如来講の中心拠点になる予定でしたが、建立間もない昭和3年に志希女史が43歳で亡くなったため、その願いは適いませんでした。

女史没後、如来寺は一時、尼僧さんがお寺のお守りをしていた時期があります。

 

◆如来寺◆

如来寺が正式にお寺になったのは、昭和19年です。七郎平氏の菩提寺であり、親戚関係でもあった滋賀県の明照寺(米原市)が

真宗佛光寺派であったことから、真宗佛光寺派に所属し、名前を如来寺としました。

 

◆初代◆

初代住職は、本山の宗務総長であった京都光薗院の佐々木篤祐師でした。篤祐師は学者でもあり人徳もある方

でした。ただ、当時は戦時体制下にありましたから、如来寺はお寺と言うよりは公共施設の役割を余儀なくされ、

戦時中には徴用工の宿泊所、終戦直後は戦災者の収容所、戦後は精道幼稚園として芦屋市が借用していたのです。

このため、如来寺はひどく傷みましたが、昭和24年に市は、本堂を修復し返還してくれました。

 

◆二代目◆

如来寺の復興を計るために迎えられたのが、当時の明照寺住職であった藤谷秀道師でした。

秀道師は毎月、法話会の度に滋賀県の米原市から芦屋市まで出向いてきました。

当時の如来寺の法話会には、芦屋仏教会館でお話を聞いた人たちが午後は大挙してやってきたそうです。

秀道師は佛光寺派学僧としては最高位の講師の位にありましたが、昭和58年に90歳で亡くなりました。

 

◆三代目◆

私、藤谷信道が住職を継いだ時、如来寺には門徒(檀家)というものがまったくなく、お寺も随分傷んでいました。

それまで如来寺には住職が常住していなかったからです。私が常住するようになってからは、徐々に門徒も増え、

お寺の修理も進み、仏具なども揃ってきました。そして、ようやくお寺としての形が整ってきたと思っていた矢先の、

平成7年1月17日に阪神淡路大震災で本堂が倒壊し、庫裏が全壊してしまったのです。

しかし幸い、多くの人たちの温かい励ましにより、3年を待たずして平成9年10月に本堂を再建することができました。

さらに、平成25年10月如来堂(一階が納骨堂)を新築、翌年10月には本堂にエレベーターを新設、必要な建物は

そろいました。いよいよ新しいお寺づくりが始まります。いつの時代にあっても、社会から必要とされ、人々に喜んで

もらえるお寺を目指して歩んで行きたいと思います。  

 

如来寺住職 釋信道 記